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イヤモニ誕生秘話。(エピソード1)ミュージシャンの聴覚保護とイヤプラグの完成
(An encounter between an audiologist and a musician who addressed the hearing loss crisis.IEM Episode1)

イヤモニの歴史は、1985年、一人の聴覚学者と難聴の危機を訴えたミュージシャンの出会いから始まりました。それが発展して1991年に世界初のIEMが誕生します。偶然、出逢ったグレードフルデッド。IEMがステージに登るまでには奇跡的な人々との遭遇があり多くのエピソードが隠されています。今まで語られる事がなかったイヤモニターが生み出されたストーリーを回顧します。【IEM生誕30周年記念『特集:イヤモニの歴史を探る』エピソード1】

IEM生誕30周年記念

『特集:イヤモニの歴史を探る』

エピソード1

Sensaphonicsは、IEMメーカーのなかで唯一シリコン素材のシェルを用い、マイケルジャクソン、ビヨンセ、レディー・ガガなどの大物アーティスト、NASAの宇宙飛行士、レーシング・カーレーサーなどから絶大な支持を得て、プロ仕様のクオリティを誇るカスタムIEMの老舗ブランドとして知られています。しかし同ブランドを率いるマイケル・サントゥッチが、実は“IEMの生みの親”であることを知る人は少ないかもしれません。

そして今年は、1992年にグレイトフル・デッドが世界で初めてとなったイヤモニの運用を始めてから30年に入る記念すべき年です。

センサフォニクスは、1985年の会社創立から今年で36年目を迎えます。また2004年に日本にカスタムIEMを紹介し販売を始めてから18年。翌年に日本での初めての国産IEMの製造となってから17年が経ちました。

このイヤモニが生まれてから30年。いまや米国や日本、欧州や中国を始めとするアジア圏など世界の音楽シーンに欠かすことの出来ない音響ライブ機器となりました。創作された経緯や開発・発展の歴史を紐解いてみましょう。

カスタムIEMのレジェンド、マイケル・サントゥッチ   =The Story of Michael Santucci=

IEM開発は、ミュージシャンの聴覚保護が原点

マイケル・サントゥッチは1953年、アメリカ・シガゴに生まれました。イリノイ州立大学で聴覚学を学び、修士号(当時。後に博士号)を取得した彼は、アメリカで医師と同等の国家資格とされる聴覚学の専門家=オーディオロジストとして1978年から活動を開始します。

そのマイケルのクリニックに始めてミュージシャンのクライアントが来たのは1985年のことでした。この小さな出来事が今や世界の音楽シーンで標準的に使用されているIEMという製品へと繋がっていく、とても大きな出来事になりました。

彼女の名前はジョアンナ・バックといい、地元シカゴのTen28というバンドのリード・ボーカルでした。

彼女はステージでの演奏をすることに聴覚の問題を抱えていたのでマイケルのところへやって来ました。それはバンドを辞めようかと考えるほど深刻なものでした。Ten28はニュー・ウェーブ・ポップ/ロックのバンドでした(シンセサイザー、ギター、ドラム、ベース、ボーカル)。今日、彼らはsynth-popと表現されています。彼らは、この翌年の1986年にピンク・ストリート・レコードという地元のレコー・レーベルから5曲入りのEPレコード盤を出しました。(CDの誕生は1983年で1985年頃から普及が始まっていましたが、まだレコードとカセットが8~9割程度を占めている時代です。)

Ten28 1986年 ピンク・ストリート・レコード
 (EP盤レコードジャケット)

ミュージシャン・イヤプラグの研究と完成

マイケルはこの時の事を、昨日の事のように話します。

私はジョアンナに柔らかいイヤープラグを使う事を勧めました。彼女はもう試したが、ひどい代物(しろもの)だと言いました。

そこで私は何故それがひどい代物なのか確かめようとしました。

シカゴのユニバーサル・レコーディング・スタジオとパラゴン・スタジオに行き、何人かのエンジニアに手伝ってもらって、私自身の耳を使って音の実験をしました。マイクロホンを私の耳の中に入れて、リアルタイム分析器(RTA)を使って、各種耳栓の周波数レスポンスを調べました。

この実験によって、そこに(市場に)あったイヤープラグのすべてが低周波よりも高周波数帯を多く遮音することが分かり(現在の市販の耳栓も同じ)、そのことが音を鈍くし、音楽を聴くのにはひどく適さないという事が確認できました。

 そこで私たちは音を濾過する(フィルターをかける)実験を始めました。すぐに、エティモティック社のミード・キロン(Mead Killion:聴覚学博士。1983年にEtymotic Research社を設立、現CEO。)が私たちのしていることを聞きつけ、私にER-15を見せてくれました。私はそれを試しましたが、それは遮音する音質バランスがフラットで歪みを起さず、広い周波数レンジでの反応があり、ミュージシャンたちにとって非常に安定したものでした。」(注:これは現在センサフォニクスで生産・販売をしているミュージシャン・イヤプラグへと発展していくものです。)

ミュージシャンの為の聴覚保護をライフワークに!

そして、この時の経験が、マイケルに「ミュージシャンの聴覚保護」という誰も取り組んでいないニッチなテーマがある事を気づかせました。

つまり、彼らの耳を守るために、

“ まだ誰も ! ” “ まだ何も !! ” “ していない !!! ” 

ということを。

そこで、マイケルは自分がやってみようと決心したのです。

マイケルをインスパイアした出来事はこれでした。ミュージシャンたちは優れた聴覚を持っていなければなりません。しかし彼らは、特にその時代は、危険なサウンド・レベル(過大な音量)の文化の中で生きて仕事をしていました。

マイケルは聴覚学者として、また音楽愛好家の一人として、“音楽業界において聴覚の必要性”について誰も何も発信していない事に気づき、彼の聴覚学の実行の場としてこの分野を専門的に実践する事に決めたのです。

ちなみにマイケルを訪ねてきたジョアンナ・バックは喜ばしい事に、センサフォニクスのイヤプラグを使う事で今でもシカゴで音楽活動を続けています。

Sensaphonics社を設立。IEMの開発へ。

1985年にSensaphonicsを設立し、オーディオロジストとして活動しつつミュージシャン用イヤー・プラグの製作を始めていたマイケルは、ここから新たな一歩を踏み出します。

これは、ミュージシャンたちがイヤー・プラグの利用を嫌う理由のひとつである、〝自分自身の演奏をモニターできない点″ を解消した新発想システムの模索でした。

イヤプラグの生産と普及を拡げるとともにすぐに現在のイヤモニターに繋がる機器の研究に入りました。実験は繰り返し行われ正式な試験機も何度も作りなおされて5年の月日が経ちます。

イヤモニターの完成

そして1991年、ついに、周囲の大音量を遮断しながら必要最小限の音量のみをモニターできる、世界初のカスタムIEM「ProPhonic Ⅳ」をリリースします。

これは今では当たり前のようになっていますが、外部から空気を取り入れる必要のないバランスド・アーマチュア型のドライバー(BAドライバー)を音楽用として世界で初めて採用したもので、ユーザーの個人の耳型に合わせてアクリル製のイヤー・モールド(オーダーメイド・モールド)を製作することで、遮音性効果のあるIEM(In Ear Monitor)の製造を実現しました。

これはマイケルの聴覚の専門分野であるオーダーメイド補聴器技術の応用でした。

そして、この開発には多くのエピソードが残されています。

全米中に多くいるオーディオロジストや聴覚学者の中で、シカゴにいた、単に一人のオーディオロジストにすぎなかったマイケルに神の導きのような大きな偶然が訪れます。

それはIEMの歴史にとっても大きな契機となった、とてつもない幸運との出逢いでした。

 

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IEM生誕30周年記念

『特集:イヤモニの歴史を探る』【Episode 1】

【Episode 2】に続く

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【Episode1】 【Episode2】 【Episode3】 【Episode4】 【Episode5】

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