イヤモニの歴史は、一人の聴覚学者と難聴の危機を訴えたミュージシャンの出会いから始まりました。グレードフルデッドのエンジニアに劇的に遭遇した生まれたばかりのIEMは、初めてバンド全員の装着で65,000人の公演で使われます。これを開発者が目撃したのが6月25日。30年目の今日、当時の様子を新発見の映像も加えて回顧します。【IEM生誕30周年記念『特集:イヤモニの歴史を探る』エピソード3】
アーティストによって認められたイヤモニター
1992年、マイケルによってサンフランシスコでイヤモニターのProPhonic IV(当時は製品に名称が無かったので、後に開発研究の第4バージョンから後に命名されました)の装着方法を教わり、それを受け取ったグレイトフル・デッドは、5月末の公演で試用を開始し、6月の公演からはメンバー全員で使い始めました。
そしてその日がやってきます。
シカゴのソルジャー・フィールドで行なわれたショー(1992年6月25-26日)の時、マイケルはIEMを着装して演奏するグレイトフル・デッドを見たのです。
それはまさに1992年の6月25日の出来事です。
これがいまや世界のアーティストがIEMを装着して演奏するという現在のスタンダードなコンサートのスタイルが生まれた記念すべき日となったのです。
この世界で初めてバンド全員で利用すると言うイヤモニターの理想的な使いかたを、ソルジャー・フィールドから始まったというのも劇的なことです。
この会場は65,000人ほど収容できるとても大きなステージです。日本に置き換えるならばオリンピックの開会式が行われる予定の新しい国立競技場の観客数が68,000人(コロナの関係で実際の入場者数になるのかはわかりませんが)ほどですから、未知なる機器でライブを行ってみるというには、その規模の大きさから考えて驚くべきことです。グレイトフル・デッドの懐の深さと、最先端の技術に挑戦するという自分達への揺るぎない自信の高さが感じられます。
イヤモニターを創作して製作をしたセンサフォニクスの創業者マイケル・サントゥッチは「その日の感激を一生涯忘れる事がないだろう」と語っています。
この日の公演が無事に成功したことが、その後のIEMの発展のスピードに拍車がかかったことは間違いありません。
BAドライバーのシングルからデュアルへ
当時、観客動員数でも音量の大きさからでも世界のトップに君臨し、最もIEMを必要として、最もIEMの利用効果の高いバンドであったグレイトフル・デッドのコンサートでの使用は大きな契機になりました。
IEMは1996年には、BAドライバーとして再び世界初となるバランスド・アーマチュア型のデュアル・ドライヴァーのモデル、つまりHiとLowのスピーカーの組み合わせによる2ドライバーモデルのProPhonic 2X-Pへと発展します。
このBAドライバーを2機搭載したProPhonic 2X-Pは、プリンス(Prince)に最初に提供され、その後多くのアーティストが利用するようになっていきます。
2ケのドライバーを組み合わせることによって、低音域から中・高音域までの全音域帯を漏れなくカバーし、より正確なモニター音を届けることに成功しました。
1996年リリースのEmancipationに収められているFace DownのMV。この年、プリンスは、ワーナー・レコードでの最後のスタジオ・アルバム『カオス&ディスオーダー』や、自身の所属するNPGレコードとEMIの提携による初の自主制作盤『エマンシペーション』など、驚異的な量の新曲を発表しました。
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最高の音響技術者による協力
これらのIEMの開発が短期間で飛躍的に進んだのには、大規模で最新鋭なライブを演出していたグレイトフル・デッドのエンジニアであるダン・ヒーリー(Dan Healy)とドン・ピアスン(Don Pearson)、そしてデリク・フェザーストン(Derek Featherstone)の大きな手助けがありました。
つまりマイケルが、グレイトフル・デッドの仕事をしたことの大きな利点が、カリフォルニア、サン・ラファエルの伝説的なウルトラ・サウンドのドン・ピアスンやダン・ヒーリーなどというスーパー・サウンド・エンジニアらと一緒に仕事をする機会が得られた事でした。
彼らは長年にわたって世界最大規模のグレイトフル・デッドのツアーの音響を担当してきており、ライブの音の補強(音量増幅)において長い革新の歴史を持つ当時最先端で最高峰のエキスパートでした。
マイケルが聴覚について造詣の深い聴覚学者である一方、ツアーでのライブ音響の世界についての経験が少ない事を知ると、彼らはマイケルに必要なあらゆることの全てを教えると申し出たのです。
マイケルは言います
「私に大きなシアターやスタジアムでの音の補強の知識が少ないと気づき、ドン・ピアスンとダン・ヒーリーは多くの時間を割いて、どのように信号のチェーンがまとめられているのか。また彼らの扱っているオーディオの問題などを詳しく説明してくれました。私たちはバンドの直面している問題をイヤモニがどうやったら解決できるのかを、あらゆる面から話し合いました。
私は彼らが分かち合ってくれた時間と知識についていつまでも感謝するでしょう。」
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ProPhonic IVについて
世界初となるイヤモニターの、プラスチック製のIEMのSensaphonics ProPhonic IV。プラスチック製のシェルとソフトなチップを組み合わせたもので、世界で初めてBAドライバー(single drive)が搭載されたイヤホンでもあります。広音域帯で最大26dBの遮音を実現しています。 その後、1996年にこれも世界初となるdual driverモデルのProPhonic 2XPへと進化しプリンスが最初のクライアントとなります。 そして2001年に広音域帯で最大37dB,8000Hzでは45.5dBという世界最高の遮音性を実現したシリコンで作製されイヤモニターの名機と呼ばれるSensaphonics ProPhonic 2XSの登場によって、相対的に遮音性の低いプラスチック製のイヤモニはすべて生産中止となります。 |
(注)マイケルが見守った最初のイヤモニター装着での演奏となった、シカゴでの1992年6月25-26日のソルジャー・フィールドの映像は、夜間の録画であるために、イヤモニターを明確に見るのが難しいかもしれません。ほぼ1年後となるこの1993年のコンサートでは世界で初めてとなったイヤモニターをメンバー全員が装着しているのを、はっきりと見ることが出来ます。
今回のコロナ感染症により病気や仕事を失ったことで影響を受けたミュージシャンや音楽業界の人々のために使われるSweet Relief Musicians Fundの募金活動を支援するために、Grateful Deadに秘蔵されていたこの映像を2020/04/25に公開しました。
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イヤモニの更なる飛躍
「ProPhonic Ⅳ」は多くの著名なアーティストにも提供され、Sensaphonicsは聴覚保護の研究・コンサルティング企業から米国随一のカスタムIEMメーカーへと進化を遂げます。
マイケルは、デッドとの活動を通じモニター・システムで最も大切なのは“正確な音の再現”だと学び、これを踏まえて開発されたのが1996年に発表された「ProPhonic 2X-P」なのです。
しかし、センサフォニクスは、それらの製品に満足することはありませんでした。ライブ会場での大音量からアーティストの耳を守ると言うイヤモニターの大前提となるコンセプトの更なる実現のため、遮音量の低いプラスチック製から、前人未踏でも遮音性能が高く、より安全性が向上するシリコンによるイヤモールドの成形に挑戦していくのです。
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追記―――――――――――――
その後、グレイトフル・デッドのエンジニアの二人は、1995年8月のジェリー・ガルシアの死去によってデッドの活動は休止され、それぞれ別々の道を歩むことになります。
ダン・ヒーリーは、主要な多くのバンドのPAなどを経て、キャピタルレコードの副社長となり、新しいバンドの育成やデジタル時代に入った現在も無限のテクノロジーの可能性を熱心に追求しています。
ドン・ピアスンも多くのバンドのエンジニアや音響機材の改良・開発のために継続的に働き、残念ながら2006年に他界するまで彼が長年に亘って蓄積した最高水準の専門の技術を継承するための教育プログラムであるセミナーを開き続け後進の指導養成に務めていました。
音楽・音響技術の青年時代から活躍していて、専門的で並はずれた人物であった二人ですが、いまや音響技術も成年期に入って成熟し、彼らが与えてくれた遺産とも言える現在の音響テクノロジーをベースとして人々がライブ音楽を聴く限り、私たちは彼らの果たした貢献を忘れることなく感謝と賞賛を続けたいと思います。
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IEM生誕30周年記念
『特集:イヤモニの歴史を探る』【Episode3】
【Episode 4】に続く(2021/6/26公開予定)
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【Episode1】 【Episode2】 【Episode3】 【Episode4】 【Episode5】
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