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イヤモニ誕生秘話。(エピソード2)「聴覚学者と音響エンジニアの偶然の出逢い」
( A chance encounter between an audiologist and The Grateful Dead sound engineer. IEM Episode 2)

一人の聴覚学者と難聴の危機を訴えたミュージシャンの出会いから生まれた音楽専用のミュージシャン・イヤプラグ。その思想を発展させてイヤモニターの研究が始まります。この初めて使われたIEMは、シカゴでのテスト試用の場で偶然、そして何故か3000㎞離れたサンフランシスコにいるはずのグレードフルデッドのエンジニアと出逢ってしまいます。それは劇的にIEMが注目され始める大きなきっかけになっていきます。今まで知られていなかったイヤモニ開発のヒストリーを紹介します。【IEM生誕30周年記念『特集:イヤモニの歴史を探る』エピソード2】

IEM生誕30周年記念

『特集:イヤモニの歴史を探る

エピソード2

【Episode1から読む】

ヴィック・シアター(シカゴ) The Vic Theatre
豪華な5階建ての演劇場とし建てられたヴィック・シアターは、ビクトリアン様式の劇場として1912年にオープンしました。ロビーの床と階段は、今でもイタリアの大理石のままで、内部には殆どオリジナルの凝った壁面彫刻が残っています。音響効果はとても良く、観客数は1425人でその席からは素晴らしい観劇が楽しめます。現在では音楽ライブや映画上演など幅広く利用されています。そしてここはIEMの歴史の中でも記念碑的な場所になりました。(写真:ヴィック・シアターオフィシャルウエブサイトより転載)

 

ケン・ノーディンのショーでIEMをテスト使用

シカゴにいた39歳の若者で、単なる一人のオーディオロジスト(注)にすぎなかったマイケルに大きな偶然が訪れます。 それは、IEMの歴史にとっても大きな契機となった、とてつもない幸運との出逢いでした。

(注)ASHA=アメリカ言語聴覚協会に登録している有資格者数は、全米で174,144人:2016年12月31日現在)

それは1992年。有名なラジオのパーソナリティーで、ワードジャズとしても演奏するケン・ノーディン(Ken Nordin)に彼の最初のイヤモニを作った時のことです。そのIEMは当時まだ名前を持っていませんでしたが、後にProPhonic IVと呼ばれるようになっていく機種でした。

ノーディンのライブ・パフォーマンスは1992年にシカゴのヴィック・シアター(The Vic Theatre)で行われました。マイケルは彼の製品がどのようなパフォーマンスをするのか、またノーディンがそれをショーの最後まで使うほど気に入ってくれるのかを見届けるために会場を訪れていました。

この時の感激をマイケルは目を輝かして語ります。

「私はただケン・ノーディンのために働いていました。彼は地元のシカゴ人であり、ノーディンのイヤモニはカスタム・モニターを作ることにおいて私の始めての実践でした。だからショーに出席したのです。彼がショーの間中ずっとイヤモニを付けてくれていたので、私はとてもわくわくしていました。後で、ノーディンは私にイヤモニがすばらしかったと言ってくれました。」

ケン・ノーディン(Ken Nordine)
 彼は1920年1月19日にシカゴで生まれました。偉大なラジオパーソナリティーでナレーターと知られています。このうえなく低く豊潤で心やすまり、よく響くバリトンの声に恵まれたノーディンは、詩とジャズを融合させたワードジャスという分野を確立します。魅力的にヒップで創造的な自由な形式の描写で、クールジャズの音楽の上にノーディンの崇高に円滑で甘美なナレーションを聴かせてくれます。彼は最も大きな人気を1950年代において成し遂げました。更に有名な仕事の一部として1970年代と1980年代をとおして高く評価されているテレビ・コマーシャルのためのナレーションや、数多くのの映画の予告編で彼の最高に美しいトーンを聴かせてくれました。
 彼を評する時に「Ken Nordineの名前や顔を知らないかもしれません。しかし、あなたはほぼ間違いなく彼の声を毎日聴いているでしょう」と、1人の批評家は書きました。
 15枚のアルバムとコンビネーションアルバム5枚をリリースしており、その中で[Devout Catalyst]というアルバムを、このショーの時に来ていたグレイトフル・デッドのエンジニアのDan HealyをプロデューサーとしてGreatful Dead Recordsから1991年に、そして[Upper Limbo]を1993年にリリースしています。

グレイトフル・デッドとの遭遇

グレイトフル・デッド( Grateful Dead)、1970年のプロモーション写真。中央にいるのがジェリー・ガルシア、左から右に:ビル・クルーツマン、ロン「ピッグペン」マッカーナン、ボブ・ウェア、ミッキー・ハート、フィル・レッシュ(写真:Wikipediaより転載)

そして、そのノーディンのショーには、運命のいたずらのように偶然グレイトフル・デッド( Grateful Dead)のエンジニアが同じヴィック・シアターのスタジオにいたのです。そのエンジニアとは、音響技師としてかの有名なダン・ヒーリー(Dan Healy)とドン・ピアスン(Don Pearson)でした。ノーディンがグレイトフル・デッドのショーにゲスト出演をするための下準備としてノーディンのショーを撮影しにきていたのです。彼らは約3000km離れたサンフランシスコを拠点としていたのです。(・・・ちなみに東京~香港間が2900km程です。)

最先端の音響技術を探り続けている彼らがこの機会を見逃す訳はありませんでした。彼らは、この偶然見かけたマイケルの新しいテクノロジーに大きな興味を持って、ショーの後で長い時間ディスカッションをしたのです。そして最後には、この製品をグレイトフル・デッドの為に作製して欲しいと依頼しました。マイケルは勿論Yesと答えました。

そして具体的にはどうすれば良いのかを尋ねられ、バンドのメンバー全員の耳型を取らなければならないとマイケルは言いました。彼らは「デッドが今度シカゴでショーをする時に(耳型採取を)やろう」と言いました。

ソルジャー・フィールド(Soldier Field:シカゴにある球技場。1924年に開場しており現在のNFLチームの本拠地の中では最も古いスタジアム。2003年の改修前には66,944人の収容が可能だったが、現在の座席数は61,500人)(写真:Wikipediaより転載)
 

そこで その年にシカゴのショーの時に耳型を取りました。マイケルはショーが行われたソルジャー・フィールドに出向き、あの伝説的なグレイトフル・デッドのバンドメンバー全員の耳型を取りました。ショーが始まる前にいくつか耳型を採取し、ショーの合い間に残りのメンバーを採取しました。そしてメンバーのために全てのイヤモニが造られました。イヤモニが完成したときにはバンドは帰っていたので、マイケルはサンフランシスコに飛び、商品を届けるとともにバンドの装着に立ち会ったのです。この時がIEMの全ての始まりでした。

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IEM生誕30周年記念

特集:イヤモニの歴史を探る』【Episode2】

【Episode 3】に続く

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