イヤモニの歴史は、一人の聴覚学者と難聴の危機を訴えたミュージシャンの出会いから始まり、イヤモニターへと発展していきます。誰も見た事がなかったこの機器を世界で初めて使ったのがグレイトフル・デッドであったことには相応の理由がありました。デッドのエンジニアが当時進めていた大規模ステージでの音響の世界からイヤモニターが生み出されたストーリーを回顧します。【IEM生誕30周年記念『特集:イヤモニの歴史を探る』エピソード4】
アメリカ西海岸、カリフォルニアのサンフランシスコを拠点として活動するグレイトフル・デッドと、生まれたばかりのIEMが、3500km離れアメリカ大陸をルート66で横断する北部の街、シカゴの小さな劇場で奇跡的な出会いをおこしました。
これが運命的な歴史の必然だったのか、神様のいたずらだったのかはわかりません。
しかし、この偶然にも演出された遭遇がIEMの歴史にとってどのくらい大きな出来事であったのか。
グレートフル・デッドを知らず、当時の様子がわからない人には理解できないかもしれません。ここで彼らについて簡単に解説をしておきましょう。
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グレイトフル・デッドとは☆ ☆ ☆
グレイトフル・デッドは、米国ポップスやロックに少しでも興味のある音楽マニアにとっては今更説明する必要がないほどのバンドなのですが、現代の日本の若者には、いまや伝説の域にある遠い存在だと思います。
しかし、その歴史と影響は一言で言い表す事ができないほど多岐に亘って現在に深く繋がっています。
ひとつの例を出すならば、米国の大規模コンサートのパイオニアバンドとしてよく知られています。
それは、現在世界の音楽シーンの潮流ともなっている野外フェスが、あの有名なウッドストック・フェスが始まりとも言われていますが、そのウッドストックも、その原型がグレイトフル・デッドの、それ以前に行っていた全米中を回る単独野外コンサートツアーが発展した形とも言えます。
また、ベトナム戦争(1965年11月 – 1975年4月30日)を前後して始まったヒッピーと呼ばれた若者の反戦運動との関連性など、当時の社会運動の中心的な存在として世界の動きに大きく係わっていました。
今でも私たちが何気に使っているピースマークやロン毛などもベトナム反戦デモの参加者が使用して世界に広まったものです。日本の現在のポップスも、この米国のムーブメントに誘発され流行したフォークソングに多大な影響を受けています。
グレイトフル・デッドは1965年に結成され、即興的な演奏が特徴で米国随一のジャムバンドとしレコードセールスよりもライブを中心に活動します。
デッドは、単なるロックバンドの枠を越え世界のカルチャーを動かす大きな存在でした。熱狂的なファンが「デッドヘッズ」と呼ばれクリントン元大統領などもその一人である事は有名です。
近年の活動としては2015年にバンド結成50周年を記念してベストアルバムがリリースされました。
また、1995年にリーダーのジュリー・ガルシアの死去により活動が停止される直前に開かれた最後の公演(1995年7月)がシカゴのソルジャー・フィールドでした(・・・奇しくもマイケルによって1992年に耳型採取がなされた所でもあり、装着した演奏を初めて目撃した場所でもあります。)。
そのうえ、2015年7月3~5日に結成50周年記念の限定復活公演が行われました。シカゴのソルジャー・フィールドとの深い縁を感じずにはいられません。
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音響エンジニア 「ダン・ヒーリー」と「ドン・ピアスン」 ☆ ☆
グレイトフル・デッドは、その野外コンサートなど会場が巨大であったことが大きな特徴です。その音響システムは当時その広大なスペースと膨大な観衆に対応できる機材がまだありませんでした。
そこで活躍したのが、音響エンジニア達で自らシステムを開発し製作していったのです。
Quad Space(後方に設置されたスピーカーから各種のサンプリング音や加工音を出し、アリーナ中を満たしてホログラフィックな効果を作り出す)や、Ultra Matrix(サウンドボードからの最高品質のオーディオ信号とオーディエンスの参加しているPAサウンドとをブレンドしてレコーディングするシステム。マイク位置の差によりタイムラグが発生するのでこれを同調させるシステム)など前衛的な試みを次々に行っていました。
特に有名なのが、「THE WALL OF SOUND」(音の壁)と呼ばれる音響システムです。これは641台のスピーカーをそれぞれの楽器、マイクのために山のように積み上げるというとてつもなく巨大で、今でも伝説として語られるシステムです。
これらのシステム構築の中心的な役割を果たしたのがダン・ヒーリー(Dan Healy)です。
彼は1967年からデッドのサウンドボードの指揮官であり、ミキシングの熟練者で、デッドの伝説的な音響エンジニアでした。またファンからも愛されており、それを物語る逸話として70年代から80年代にかけて西海岸のショーの二階席からはサイケデリックな文字で「ヒーリーは天才だ」という垂れ幕が掛けられ、また「サウンドの魔術師」と言う名で称されていました。
そして、ドン・ピアスンは、同じくデッドのエンジニアで、別名「ドクタードン」あるいは、「タイムマスター」という異名で呼ばれていました。彼は技術的な厳格さという評判と革新、一貫して無垢な音を確立し妥協をしないエンジニアとして知られています。彼の開発したシステムは世界各地のライブで鳴らされている音に彼の功績として今でも響き続けています。
彼らの音響システムへの探求は各種の実験を伴っており、常に新しく尖鋭的なテクノロジーを模索していたのです。
そのため、生まれたばかりのイヤモニターに遭遇すると躊躇することなく、その場で採用したのです。彼らのこの見識の高さがあって、そしてイヤモニを見つけるという偶然がなければ、人々の目にイヤモニが留まるのは何年も遅れることとなったでしょう。
出逢いは偶然でしたが、装用は必然でした。
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IEM生誕30周年記念
『特集:イヤモニの歴史を探る』【Episode4】
【Episode 5】に続く (2021..6.27公開予定)
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【Episode1】 【Episode2】 【Episode3】 【Episode4】 【Episode5】
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